Photostream

喪中にしてはいけないこと

  • 質問者:noname#30513
  • 投稿日時:2005/11/22 14:20

こんにちは。
喪中にしてはいけない事といえば
1.年賀状のやりとり、年賀の挨拶、初詣
2.神前結婚式への参加(場合によって披露宴の参加)
3.その他、婚約、結婚などおおめでたい事?
などくらいしか思いつかなかったのですが…。

最近、神社へのお参り、神社系のお祭参加もダメだと知りました。
実は、知らずに観光地の神社に行ってしまいました。(冷汗)
それで、他にも何かありましたら教えてください。
また、
しめ縄や正月かざりしないほうが良いですか?
喪中は、一年間ですか?
神社系は年が明ければよいという人もいますが、本当でしょうか?


No.4

  • 回答者:teinen
  • 回答日時:2005/11/23 22:46

 「喪」というのは,先祖崇拝や先祖供養を説いた儒教に基づくもので,実の親が亡くなった時の服喪期間は,元々3年でした。儒教が色濃く残っている朝鮮半島では今もそうですね。金正日氏が朝鮮労働党総書記に就いたのは,実父の金日成主席の死から3年後でした。
 日本では,「3年も喪に服されちゃ困っちゃうよ」ってことで,江戸時代に13ヶ月に縮められています。亡くなられた月を1ヶ月目と数えますから,No.3の方の回答にあるとおり,今年の1月に実の親が亡くなったのであれば,来年の1月末までが服喪期間となります。
 服喪期間は,慶事を控えるというのが習わしですので,注連飾りなどはしないものです。
 
 さて,申し上げましたとおり,「喪」は儒教に基づくものでして、神社神道では期間が異なります。
 神社神道では,実の親が亡くなってから50日を忌服期間としています(仏教ですと49日です)。
 神社神道では,死を穢れと捉えれていますから,忌服期間は神社へのお参り,神社の祭りへの参加はダメです。神社に祀られている神様が「あんた,忌中で穢れてるから来ちゃダメ。」と言っているわけですが,物理的に忌中の方が神社に来るのを排除できませんから,お参りする側が遠慮する習わしになっているのです。
 よく「鳥居をくぐっちゃダメ」と言いますが,これは,鳥居をくぐらなければ良いという意味ではありません。
 神社は,柵や植栽や構造物によって囲まれています。結界と呼ばれるもので,結界の内側は,神様の領域です。その神様の領域に出入りすることが許される所に鳥居があるわけで,「鳥居をくぐる」とは「神様の領域に入る」ということを意味します。ですので,鳥居をくぐらず脇から入るというのは,他人の家を訪問するのに,玄関から入らず,垣根の隙間から入るのと同じことです。
 実の親が亡くなってから50日以上経過していれば,神社に詣でて良いので,お間違いなく。

 また,浄土真宗・真宗には「忌」という概念がありませんから,浄土真宗・真宗の門徒さんであれば,喪に服することも忌服することもありませんので,喪中葉書も出されません。

「冥福」は祈らない - 極東ブログ by finalvent

e-tag:

「冥福」に話を戻すと、浄土真宗つまり門徒は「冥福」という言葉を使わない。御同行御同朋使だけで使わないわけでもない。この手の話はネットにあるだろうと探すとある。「浄土真宗の弔辞の例文」にはこうある(参考)。


仏教でも、浄土真宗でも、故人の冥福を祈りません。
既にご承知と思いますが、冥福とは、「冥土(冥途)で幸福になる」と言う意味です。そして、この「冥土(冥途)」とは、仏教以外のものの考え方なのです。
つまり、ご遺族に「ご冥福をお祈りします」とご挨拶されることは、「亡くなられた方は、冥土(冥途)へ迷い込んだ」と言うことを意味し、「お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言えます。
亡くなられた方は、何の障害もなく、お浄土に往かれています。亡くなれば「迷う者」として、「祈る(供養)」と言うことは、果たして遺されたご家族の悲しい気持ちに対してふさわしいものでしょうか。
浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶なら、「○○さんのご冥福をお祈りします」ではなく、「○○さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します」と、浄土真宗の教えにふさわしい言葉に言い換えましょう。

「浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶」と限定されているが、門徒の信仰者ならどの人にも冥福は祈らない。門徒でない人間なら冥福を祈ってもいいのだろうか?と、そんな理屈をいうまでもなく、「ご冥福をお祈りします」は礼儀を示すというだけの空文なのだろう。つまり、「私は礼儀正しい人間だ」という表明なのだ。

過去はすでに去り
未来はやってこない
あなたが生きられるのは
ある一瞬以外にない
それが今 この瞬間

—仏陀の言葉 (via heal-theworld)

「どうやってハッピーに生きていくか」というのが仏教です。

これは大変難しい問題ですが、仏教の開祖である釈尊は、なんとこれに対して見事な解決法を編み出したのです。そして周りの人たちが「おおぅ、釈尊スゲエ!」と思い、やり方を教えてもらって真似したり改良していったりして成立したのが仏教です。なので、キリスト教やイスラム教と違い、絶対的で超越的な神様が「こうやって生きていくのが正解じゃぞ」と教えてくれたわけではなく、「オレはこうやったらハッピーになれたぜ!」「みんなも真似してみれば!?」というスタンスです。なので、初期の仏教における釈尊は何もかも知ってる超人的なスゲエやつではなく、憧れの先輩くらいのポジションでした。ただし、これが後世どんどんと神格化されていきます。

では、釈尊はどうやって「世の中でハッピーに生きていく」ことを成し遂げたのでしょうか?
彼のアイデアはシンプルでした。まずは現状認識から始めます。なぜ、この世はロクでもないのか?それは自分の思い通りにならないからです。プリンが食べたいのにお金がない。好きな女の子がいるのに見向きもされない。張り切って仕事しようとしたら嫌な上司に邪魔される。そして、きわめつけは死にたくないのに死んでします。

経済情況も異性や上司との関係もあなたの命も、この世のものは何もかも思うようにコントロールできず、「なんでうまくいかねえんだよ」!と不満が溜まっていきます。この「思うようにならない」ことを仏教では「苦」と言います。そして、「あれもこれも思うようにならねえぜ」というのもを「一切皆苦」と言います。これがまず仏教の現状認識です。

さて、釈尊はいかにしてこの問題を解決しえたのか?
ここで釈尊は過激な手段を取ります。彼は考えました。なぜ私たちはうまくいかなかった時に不満を感じるのか?「**したいのに、**できない」から私たちは不満を感じるのです。この「**したい」という気持ちが欲望であり「煩悩」です。

じゃあどうすればいいのか?答えは簡単ですね。「**したい」と思わなければ良いのです。何もかも「どうでもいい」と思ってしまえば良いのです。「プリンとかどうでもいい」「女とかどうでもいい」「仕事とかどうでもいい」「生きるとかマジどうでもいい」。この境地に達すれば何もかも「どうでもいい」ので、何かうまくいかなくっても「どうでもいい」。よって、不満が溜まることもなく、毎日楽しくヘラヘラしていられるのです。これが最初期の仏教の基本的なアイデアです。

と、言うと、「おいおい、なんかロクでもねえなあ」と思われる方もいるかもしれません。
では、カッコ良く言い直しましょうか。「煩悩を断ち切り」「執着を離れる」のです。どうです?ほら、カッコイイでしょ?でも、要するに「どうでもいい」なのです。この境地を仏教では「悟り」や「解脱」と言います。このように仏教は最終的には善も悪も否定します。仏教は巷で思われてるような生っちょろい道徳宗教ではありません。

本能的な欲求は「生きる」ためのものですから、これを消滅させるとなると、「生きたくない」という思いを心身に刻み込むことになります。ただし、「死にたい」となると、これは煩悩ですから、あくまで「生きたくない」です。より正確には「生きるのなんかどうでもいいけど、死にたいわけではない」くらいの感覚でしょうか。つまり、「何もかもどうでもいい」の境地です。

ここで釈尊のアイデアとして非常に重要な「無情」についても説明しておきましょう。
無情は「ほぼ全てのものは変化し続けて永遠には存続しない」というアイデアです。自分の身体だって今は健康でもそのうちどこか壊れて死にます。精神に関しても、大好きな恋人のこともそのうち嫌いになるかもしれません。なので、ここから「そのうち消えちゃうものにこだわるなんて馬鹿らしくね?」「どうでもよよくね?」という思考法が導かれます。大抵のものは「無情」だから「どうでもいい」のです。

しかし、この境地に達してしまうと通常に社会生活は送れなくなり、社会不適合者になってしまうことは確かです。実際に釈尊も最初は飢えて死ぬ気満々だったようです。他人に説法をする気も全然ありませんでした。悟りをひらいた後は「オレの悟った真理スゲエ」と一人でエヘエヘして49日間も菩提樹の周りをウロチョロしていたのです。

この頃の彼は、「他のヤツに教えてやってもー。どうせ誰も理解できねえしー。疲れるだけだしー」みたいなことを言っています。驚く程やる気がありません。伝説によれば、バラモン教の神であるブラフマーが釈尊の下へ直々にやってきて、「そんなこと言わずに説いてやって下さいよ。たまには分かるヤツがいるかもしれませんから」とお願いしたことになっています(これを梵天勧請といいます)

「でも、仏教には慈悲行があるじゃないか、慈悲ってことは他人のことを思いやってるわけで、他人はどうでも良くないんじゃ?」と思われる方もいるでしょうが、イイことをすることによって「自分の心を乱さない」ためのものであり、本質的には「自分のため」なのだそうです。

また、この頃、巷で広まっていた民間説法をコピーして、「釈尊は前世でこんなことやってたんだぞ」という物語が作られました。
たとえば、釈尊は昔、ウサギに生まれたことがあります。その時、ウサギの彼は「乞うてくる人がいたら何でもあげよう」と善行を誓いました。すると、老人が現れて何か食べるものをくれ、と言ってきます。これに応えてウサギは火の中に飛び込み、「ウオオー、オレを食ってくれ、ウギャアアア!」といって焼け死んだのです。これは要するに「釈尊は前世もスゴイんだなあ」という話しです。とまあ、これは普通に考えればファンタジーなのですが、これが釈尊の差別化につながります。

Run for your lives.

Run for your lives.

paw paw #cat#neko#ネコ#ねこ#猫

paw paw #cat#neko#ネコ#ねこ#猫

to be too close #cat#neko#ネコ#ねこ#猫

to be too close #cat#neko#ネコ#ねこ#猫